アスペルガーなどの発達障害に対する 世間の反応

昨今、テレビや新聞などでよく「発達障害とは」という記事を
見かけるようになったと思います。

しかし個人的にはまだまだ発達障害と言う障害は世間に
あまり知られていないと思います。

特定の発達障害、特にアスペルガーや学習障害、注意性欠陥障害と
呼ばれるような障害は、一般の人から見たら
「その人が持っている個性」のように捉えられてしまうようなのです。

例えば、学習障害(LD)という障害者のひとは
生まれつき「国語」「理科」「社会」「算数」などといった
学校で習う教科の学習がなかなかできません。
つまり、人と同じだけの勉強の仕方や量をこなしても
他の人と同じように学力が伸びていかないように
脳の構造が形作られています。

これは生まれつきの脳の構造であり
本人の努力で脳の構造を変えることができません。
ゆえに一生懸命勉強に励んでも、一定以上の学力を身につけたり
することができず、苦しい思いをすることになることが多いのです。

ところが、多くの世間の人々は、こうした脳の発達障害を持つ人たちが
障害のせいで勉強ができないのではなく、

「本人の努力が足りないから、彼は勉強ができないのだ!」と
勘違いされてしまうのです。

そして周りの教師や親やクラスメートからも良くない評価を受け
苦しむことになるのです。

「努力すればどんなことだって叶うんだ!」と漫画やアニメや歌などでは
訴えますが、それは美術、美学的な世界では美しくとも
現実世界においては酷いことばだと思います。

例えるなら、両手両足のない人に、
「自分の手足を持ってして全力疾走をして、人類の徒競走の平均タイムを出せ!」
「平均タイムを出せないなら!お前は努力が足りないんだ!!」
といってるようなモノです。障害があるからできないことはあるのに
「努力したら何だってできる!!」と叱責するのはたとえ善意で
相手のために訴えていても、相手を苦しめることになると思います。

しかし、近年に至るまで、そうした脳の障害があるということを
多くの日本人が知りませんでした。
それどころか日本人独特の

「できないというのはいつの時も甘え!」「頑張れば誰だってできる!」
「人の能力に大きな差なんかない!」といった非科学的、非現実的な
「日本式精神主義」によって、

障害を持つ人たちは周囲の人々、さらに
親とか教師といった、本来なら味方になってくれる人たちからも
できないことを責められてしまう状態になりやすく
当事者である学習障害の人の心や立場を追い詰めていってしまうのです。

この記事では学習障害の人のケースを取り上げましたが、
他にアスペルガーやADHDと呼ばれる発達障害を掲げる人たちが
その障害を一般の人々に知られることもなく、学習障害を抱える人々と
同じように苦しんでいる現実があるのです。

例えば、

『育児放棄』をしてしまう母親や父親の中には、

『生まれつき育児放棄をしてしまう遺伝子』を脳に抱えて
生まれてきてしまう人もいるという研究結果が発表されて波紋を
よんでいます。

しかし残念ながらこの国では、

『自分の悪しき行動は、全て自分に原因があり、
自分を見つめ直し精進しないと何も改善しない!』であるとか
『原因は常に内にこそあり!人や外に求めるな!』だとか
『自らを省み、内面の悪しきものを改善し、乗り越えてこそ成長はあるのだ!』

などといった、「教訓やことわざの断定化」「過剰で非現実主義的な精神論」が
根強く幅をきかせていて、真面目で善人な親や教育者ほどそうした教示を
強く抱いていたりするため、発達障害の人たちもその関係者も
お互いに悪意などないのに、むしろ頑張っていたり善意だったりするのに
お互いに苦しむ結果になっていたりすることがあるのです。

私たちの住む世界は、決して

「善の心を持ってして行動すれば、全てが良い結果になるようにできているのですよ!」と
いったカタチにできているのではありません。
漫画や映画ではそうなっていたりしますが、

『現実に生きる我々は、現実を見て、現実的に、現実を切り開いてゆかねばならない』

と私は考えるのです。